「型があるから型破り、型がなければ形無し」と言ったのは誰?
「『型』があるから『型破り』ができるのであって『型』がなければ『型なし』ですよ」というわけで,「定型文から入る文章作成教育」は必要だと思う。そこからはみ出そうとする能力を教師が許容できるかは別の話。 / “小学生向けの教材に読書感…” http://t.co/XuxJsOqbPN
— 西六地蔵図書館基盤研究所 (@WestSixJizo) 2015, 8月 19
6号:日米仏の思考表現スタイルを比較する- ベネッセ教育総合研究所
日米仏の思考表現スタイルを比較する - ベネッセ教育総合研究所
型を知らずにやるのは単なる形無しであって、型を知って初めて型破りになる、というどこかの歌舞伎役者の話と完全に相似形
2015/08/14 22:57
「型があるから型破り、型がなければ形無し」の出典を調べると十八代目中村勘三郎(五代目中村勘九郎)と立川談志の2人が出てきた。
ゆにおん・ネタ帳
https://j-union.com/-/ad-info/nlog/viewer/view.php?ID=326&CID=7663&AID=63613&T=kiji
そんな折、たまたまラジオから流れてきた、子ども電話相談番組で「型破りと形無しの違いはなんですか?」と質問があり、回答者の無着成恭(僧侶で教育者)がこう答えた。 〝そりゃあんた、型がある人間が型を破ると「型破り」、型がない人間が型を破ったら「形無し」ですよ〟勘三郎は「 あっこれだ!」と先代の教えの意味を理解した。
以来、勘三郎氏は徹底的に型を習得し、練習に練習を重ね、先代から受け継いだ十八番演目である「春興鏡獅子」の演技に生涯をかけ心血を注ぐとともに、後継者であるわが子や弟子に対しても幼い頃から徹底的に基本を叩き込んだという。
勘三郎はこの言い回しが気に入っていたらしくメディアの取材等でもよく話していたようでぐぐるといろいろ出てくる。ラジオ子供電話相談の僧侶の回答というのが面白い。ひょっとしたら仏教説話などにでてくる話なのかもしれない。
立川談志は出典がはっきりしている。弟子の立川談春の著作「赤めだか」である。
「型なし」ではなく「型破り」-【書評】赤めだか(立川談春):投資十八番
注・元ブログが削除されてあやしいページのリダイレクトになっているようなのでウェブアーカイブに貼り替えました(2017/12/07)
型ができていない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、わかるか?
-赤めだか P72~73より引用-
ちなみに、「かたなし」は「型無し」ではなく「形無し」と書くのが正しいようである。