安田弘之『ちひろさん』に見る「絆フォビア」(ネタバレあり)

映画化記念で2月末まであちこちで無料公開してたのでLINEマンガ、ebookjapan、kindleを巡って全9巻読破しました。

 

物語は主人公の「ちひろ」が弁当屋の面接を受けるところから始まる。ちひろは本名ではなく風俗嬢時代の源氏名であることをあけすけに話し、そのまま採用。美貌と気立ての良さでたちまち店の看板娘となり、商店街のおじさんたちはメロメロになる。ちひろはおじさんでもおばさんでも愛想よく接するが、深く立ち入ろうとする人間は拒絶する。第1話後半、ちひろは小学生にいじめられているホームレスの老人を連れ帰り、風呂できれいに洗って髪や髭を整え着替えさせる。ちひろは彼を「師匠」と呼び、「ごっこ遊び」を始める。陶芸の師匠と弟子、ダメ亭主と苦労する妻、漫画家と編集者。路上に帰っていく師匠を窓から眺めながら、ちひろは「深い!/深いわ~~~」と感動する。だが数日後、ちひろは路上で冷たくなっている師匠を発見する。ちひろは師匠を背負い、一人で山に遺体を埋めてしまう。師匠がいなくなったことを気にするものはなくちひろだけが知る秘密になった。ちひろは「私がそうしたのは/とても自然なことだった」と独白する。ちひろにとって自然なこと、ホームレスを師匠と呼び尊敬する理由は「絆を持たないこと」、地縁血縁の外でいることだった。ちひろは死んだ師匠に「絆」が湧いて出ることを許さず孤独なままこの世に生きていた痕跡を消してしまったのである。ちひろの「絆フォビア」はただの元風俗嬢ではない独特の生き様として繰り返し描かれる。

 

ちひろに人生を狂わされるのが地味な眼鏡の女子高生・オカジだ。オカジはちひろに興味を持ち、接触するがたちまちちひろは彼女の抑圧された感情を見抜く。ちひろに感化されたオカジは表面的に仲良し家族を演じている家族に反抗し、クラスで仲が良かったおたく女子グループにも皆が絶賛するアニメを批判したことで孤立する。孤独に耐えられないオカジはちひろに導かれるように不登校の同級生・べっちんと出会い意気投合する。オカジはちひろのように本音を隠さず一人人生を漂流することになったが果たしてそれは幸福なのだろうか。さすがに作者も温情を与えたかったのか、最終巻書き下ろしではオカジが「男子に告白された」とちひろにLINEで報告するエピソードが描かれた。しかしちひろのように容姿に恵まれずちひろと同じく廃墟に忍びこんで缶ビールを傾けることを覚えたべっちんは明るい将来が想像できない。美人なメンヘラなら理解ある彼くんに出会って逆転もありえるが、不細工なメンヘラ女はひきこもるか、攻撃的な「山姥」になるかしないと自分を守れなくなってしまう。


ちひろが唯一尊敬する女性が、弁当屋店長の妻・多恵だ。ちひろが風俗嬢であることを打ち明けたとき「そう」と笑顔でさらりと受け止めた多恵をちひろは「この人は本物だ」と感激する。多恵が事故で入院して視力を失うとちひろの情は一層深くなる。弁当屋に求人が出るとすぐに応募して働き始め、病院にも足しげく見舞いに行っている。退院後もドライブや旅行などまるで実の娘のように尽くす。だがちひろにとってはこれはホームレス師匠のときと同じくごっこ遊びの一部なのである。

ちひろが在籍した風俗店長は彼女をこう評する。「いい女には違いねえけど/思いつきで急に逃げ出す/  人の縁もしがらみもバッサリ切り捨てる情の薄さ」

物語終盤、ちひろは本名の「古澤綾」を名乗ると宣言。元風俗店店長・現金魚屋を父親、多恵を母親、オカジたちを娘に見立てて精神的にリセット、したかに見えた。だが最終話、ちひろは突如失踪する。きっかけは多恵がちひろに同居を持ちかけたことだった。ちひろが望んでいたのは全ての縁を絶った上で「家族ごっこ」という薄い関係を続けることであり、同居の誘いは自身の肉体と精神を縛られる苦痛でしかなかったのだ。ちひろに関わった人たちは時折彼女から届く短い手紙やメールで近況を想像しながら彼女の選択を否定しない。これが大団円である。

おそらくちひろはどこまでいっても幸せにはなれない。自慢の容色が衰えてしまえば誰に愛されることもなく野垂れ死にすることだろう。それでも私はこの漫画に流れるゆったりとして生気のない水底のような雰囲気に引かれる。「ちひろさん」の世界は死後の世界で、ちひろも行き交う人たちも皆死者であると思うと妙に納得するのである。

 

追記(2023/04/05)

このブログの中でこの記事だけがGoogle八分された模様。そんなまずいこと書いてないと思うが…